忠志転機

 一 出会い
 貫けるように晴れた空。噴水と芝生が売り物の公園で顔を蒼く腫れ上がらせた青年が一人。面白くなさそうに芝生に腰をおろすと、数秒も置かずにゴロン、と横になる。
「つまらねぇ……」
 桐生(きりゅう)忠志(ただし)は空を見上げると唾を吐き捨てるように呟いた。
――完全に名前負けだよなぁ……
 つい先刻殴り合いの喧嘩をした、兄の言葉が忠志の胸をきつく締め上げた。
「なにが忠なる志、だよ……」
 それは忠志が両親、教師、そして兄に叱られる時、必ず言われる言葉だった。
 忠志にとって兄の存在は疎ましかった。文武両道。そう言えば聞こえがいい。その陰で自分がどれほど押しつぶされそうになるのを我慢していたのか、両親は知らない。県下一の公立高校を卒業後、国立の最高学府に修学。そこで修士課程を卒業後は官僚として国家公務員の仲間入り。誰が見てもエリートコースまっしぐらの兄。それに引き換え、自分は金さえ積めば入学させてくれるような三流の、更に低下層にある私立高校を卒業。大学も同じようなところに入り、今二度目の二回生。
何かにつけて『お前はダメだ』と言う兄。事ある毎に『お兄ちゃんを見習いなさい』と叱りつける両親。何もかもが自分にとって気に入らなかった。
「気にくわねぇ」
 もう一度吐き捨てるように呟くと、上半身を起き上がらせる。何をしても兄には敵わない。頭の良さも、そして腕力でも。高校生の頃、札付きの不良として町を闊歩していた経験から、喧嘩にだけは自信があった。それでも兄と殴り合いをした時、地面に這いつくばっていたのは自分だった。
「何もかもが、気にくわねぇ……」
 それは忠志の魂からの叫びであった。容姿が似ているからこそ余計に腹が立つ。そしてそれと同時に、何の目的も見つからないでいる自分への憤りでもあった。
 
「……てください!」
 遠くにその声が聞こえて来た時、既に日は傾きかけていた。
「なんだ?」
 何気なく、その声の方に歩き始めた忠志は、一体何の声であるのかすぐに悟った。公衆トイレの周りを見張るように立っている三人の男。その裏側で動く二つの影。
「オラオラ、見せもんじゃねぇんだよ!」
 見張りをしている男の一人が凄みをきかせ、忠志に怒鳴りつける。どう見ようと、二十歳以前。いわゆる『少年法』に守られている年代だ。そしてそれを勘違いしている存在。
「じゃあ、なんだよ……」
 威圧感だけなら忠志の方が数倍は強い。その忠志の声に気圧されたように三歩後ずさり、そこでバタフライナイフを取り出す。
「そんなもん出したくらいで、びびると思っているのか?」
 ゆっくりと吐き出すように言う忠志の動きは言葉よりも慎重だった。
「うるせぇ!」
 勢いよく走り出す少年の手首を狙い済まして手刀を打ち、ナイフを叩き落す。その流れるような動きに他の二人は完全に萎縮し、手首を抑えてうずくまる少年を置いて、その場を駆け出す。
「……チッ」
 軽く舌打ちをすると忠志は公衆トイレの裏で動いている二つの人影の方に歩き出した。
「う、う……」
 バンダナか何かで猿轡をされ、涙を流しながら首を振る若い女性。そしてそれを楽しむようにいやらしい笑いを浮かべ、女性の下着に手をかける少年。
「オイ……」
「なんだよ、まだ終わってねぇ」
 忠志の声に振り向く事無く少年は答える。
「オイ……その位にしておけ……」
 今度は少年の方に手を置く。
「何だよ!」
 その行為に苛ついたように少年は振り返り、そして自分の仲間でない事に気付き、慌てて女性から離れる。
「てめぇなにもんだ!」
 オリジナリティの欠片もない言葉に忠志は呆れたようため息を吐いた。
「なにもんだと聞いてんだよ!」
 忠志の行動に腹を立てた少年は拳を握り締め、忠志に殴りかかる。それをあっさりとかわすと、すれ違い際に忠志は少年の腹部に拳をめり込ませた。
「てめぇらみたいのを見ると自分がダブって腹が立つんだよ」
 腹部を抑えてうずくまる少年の顎をつま先で蹴り上げるとそう吐き捨てる。
「……覚えていやがれ!」
 覚束無い足取りで逃げ出す少年を尻目に、忠志は怯える様に自分の方を向く女性に振り返る。そして、女性の足元に転がる折れた白い杖を見て、ゆっくりと女性に近づく。
「目、見えないのか?」
 女性の前で膝を折ると忠志は猿轡を解こうと女性の頭の後ろに手を回す。
「イヤッ!」
 猿轡が解かれるのと同時に両手を前に突き出し、四つん這いで逃げ出そうとする女性に忠志は軽く頭を掻くと、自分の上着を女性の肩にかけた。
「あの……?」
「俺は桐生忠志、だ。あんたは?」
 極力優しい声を出す忠志にようやく女性は少しだけ安心した表情を浮かべた。
「あ、西村……詩子(うたこ)、です……」
「……じゃぁ、詩子さん、その上着はあんたにやる。それと家まで送っていってやろうと思うんだが、どの辺だ?」
 忠志の言葉に詩子は首を横に振ると地面を叩き始める。
「大丈夫です。一人で、帰れますから……」
「杖なら、折れてるぜ」
 忠志は折れた杖を拾うと、詩子の手に触らせる。
「それに、あんな目にあったんだ。同じ男として恥ずかしい限りだけどな」
 忌々しそうに呟く忠志に、詩子はもう一度首を振る。
「大丈夫です、から……」
 無理をしている。忠志はそう判断すると有無を言わせずに、詩子の身体を抱き上げる。
「は、離して……!」
「男に触られるのは嫌かもしれんが、我慢してくれ」
 忠志はそう言うと、ゆっくりと歩き出す。
「で、君の家は?」
「……です」
 小さく呟く詩子に忠志はピタリと足を止める。
「何だって……?」
「迷惑です!」
 今度は大きく、そして強く叫ぶ。
「目が見えないから、同情ですか? そんなの迷惑です!」
「そんなんじゃねぇよ」
 忠志はゆっくりと答える。
「え……?」
「別にあんたの目が見えないから助けた、そう言うわけじゃない。たまたま助けた奴が目の見えない女だった。それだけだ。それと、君を助けた理由もあいつ等が気に食わなかっただけだ」
 忠志はそう言うと再び歩き出す。
「で、どっちだ?」
 もう一度聞く忠志に詩子はあきらめた様に溜め息を吐くと、小さく呟いた。
「ああ、そこなら十五分くらいか?」
 忠志はうなずくと、詩子の指示した場所に歩き出した。
 
  二 人生の転機
 翌日。
「よぉ……」
 同じ公園で、忠志は自分の上着を羽織って、芝生の上に腰を下ろしている詩子に声をかけた。
「また会ったな」
「……忠志さん?」
「当たりだ」
 見えないとわかっていながらも頷き、忠志は詩子の横に座る。
「大丈夫なのか?」
「大丈夫なわけありません」
 詩子はそう言うと羽織っていた上着を脱ぎ、忠志の方に差し出す。
「有難うございました……」
「やるって言ったろ?」
「貰う謂れがありません」
 答える詩子に忠志は苦笑すると、上着を受け取る。
「それだけです」
「あ、ちょっと……」
 立ち上がろうとする詩子を呼び止めると、忠志は小さく息を吐く。
「何ですか?」
「少し、話をしないか?」
 忠志の言葉に詩子は浮かせた腰を再び下ろす。
「話って、何ですか?」
「別に、大事な話、そう言うわけじゃない。ただ、もしも昨日の事に恩義があると思うなら、ちょっとだけ愚痴に付き合って欲しいと思ってさ」
「愚痴、ですか?」
 聞き返す詩子に忠志は頷く。
「俺、上に兄が一人いるんだ。こいつが出来た兄貴で、今や国家公務員様だ。俺はいつも兄貴と比べられて、いつも兄貴を見習え、そう言われてきた。兄貴は兄貴で、お前はどうしてそう、馬鹿なんだ、もっと利口に生きろ、そう繰り返すばかりで、俺は毎日がつまらなかった。いや、今でもつまらないな……」
 一人語り出す忠志に詩子は黙ったまま耳を傾けていた。
「中学や高校の頃はそれが嫌で喧嘩に明け暮れる毎日だった。毎日のように人を殴り、毎日のように人を傷付ける、そんな日々を送っていた」
 そこまで言うと、忠志は大きく溜め息を吐く。
「家じゃ居場所が無くて、よく連れや女の家に泊まった。居場所が無いから逃げる。逃げるから居場所が無くなる。その悪循環の繰り返し。もしかしたら、今もそうなのかもしれないけどな。そして、親父や兄貴と顔を合わせるたびに殴り合いの……」
「忠志さんは、自分が嫌いですか?」
 小さく、呟くように言う詩子に忠志は言葉を止めた。
「どうして、そう思う?」
「どうしてだと思います?」
 疑問を質問で返した詩子に忠志は小さく息を吐いた。
「……そうだな。嫌い、だな。何も出来ずにくすぶっている自分が。目的ややりたい事も見つけられないで、気付けば不平不満だけを口にして、それでいて親が敷いたレールを不承不承に歩いている、そんな自分が嫌いだ」
「自分を変えようと思った事はないんですか?」
「あるよ。何度もね」
 忠志はそう言うと空を見上げると、芝生の上に寝転がる。
「でも、だめだった。何をやろうとしても、兄貴の存在が俺の頭にちらついて、何を考えても、兄貴の言葉が耳を掠めて、途中で投げ出しちまう」
「でも、私を助けてくれました」
 忠志の方を向いて微笑もうとする詩子に忠志は一瞬、惚けた様にその顔を見つめた。
「……もう少し、下」
「え……?」
「もう少し、下を向いてくれないか? 俺、今、寝転がってるから」
 忠志の言葉に従い、少しだけ下を向いて微笑む歌子に、忠志は小さく微笑んだ。
「……」
「どうしたんですか?」
「……いや、かわいいな、と思ってさ」
 訊ねる詩子に忠志は自分の感想を隠さずに呟いた。
「からかってるんですか?」
 少しだけむっとした顔で頬を膨らませる詩子に苦笑すると、忠志は身体を起こす。
「いや、正直な感想だよ。確かに顔つきとかは人並みかもしれないけど、すごく輝いているように俺には見える」
「……誉めているんですか、それ?」
「ああ……」
 忠志の笑い声につられる様に詩子は笑い出し、笑いながら、じゃあ許してあげます、と付け加える。
「……なぁ」
「はい?」
「いつからなんだ?」
 突然の、主語の無い質問に詩子は首を一瞬だけ傾げると、にっこりと微笑んだ。
「幼稚園の頃からですよ」
 屈託のない笑みのまま、詩子は答えた。
「突発性、なんとか、という病気みたいで、いつの間にか何も見えない生活になっていました。今では見えないことが当たり前です。医師の方からは今の医療技術では回復不能だと言われましたけど、それでもどうにか生活できています」
「そうか……」
 忠志は頷くと、拳を強く握り締めた。
「……それがどうかしたんですか?」
「いや……それより、そろそろ暗くなってくる。送っていくよ」
 そう言う忠志に詩子は少しだけ嬉しそうに頷いた。
 
 その夜。
「親父、話がある」
 忠志は父親の書斎のドアを叩いた。書斎、と言っても本が多いわけではない。どちらかというとパソコンやOA機器が大半の場所を占めていて、本棚は一つ、しかも三段しかないものだけである。
「何だ? また小遣いの催促か?」
 突き放すように言う父に忠志は絨毯の上に正座をし、頭を下げる。
「どうした? 土下座なぞ、似合わん真似して」
「大学に入りなおしたい」
 忠志は単刀直入に切り出す。
「大学?」
「ああ、俺、眼の医者になりたい」
「何を馬鹿なことを……」
 真剣に言う忠志に父は一瞬だけ笑い飛ばそうとして、それを止めた。
「詳しく話してみなさい」
 父親の言葉に忠志は頷くと、自分の決意を語り出した。
「……だが、お前の学力で医学部に入るのには、並大抵の努力では届かんぞ?」
 忠志の話が終わってから一服するだけの時間を置いて、呟く。
「今までは、兄貴から、そして親父やお袋から逃げるだけだった。でも、今回は違う。あの娘の眼を治してやりたいんだ。目は見えているくせに、何も見ようとしなかった、そんな俺が、あの娘に会ってたった二日で、道が開けたような気がした。道が見えた気がするんだ」
 だから、詩子に世界を見せてやりたい、忠志はそう付け加えた。
「一時の迷い、そう言う事もありうるぞ?」
「そうかもしれない。だけど、俺はそうじゃないと信じたい」
 言葉に篭められた決意に忠志の父はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「いいだろう。だが、そこまで言うんだ。半端は許さんぞ」
「ああ、わかってる」
 忠志は頷くとようやく立ち上がる。
「親父……」
「何だ?」
「ありがとう……」
 部屋を去る直前、小さく呟く忠志に、忠志の父は微かに頷いた。 

 三 絆
 二年後。
「……今日も早いな、詩子」
 日課のようになった挨拶を忠志は口にした。
「早起きしか、とりえが無いですから」
 笑いながら答える詩子に、忠志はつられるように声を上げて笑い出す。
「それで、どうだったんですか?」
「ああ、三流大学だけど、それと、補欠だけど、何とか引っかかった」
 忠志はそう言うと、詩子の横に腰を下ろす。
「ただ、さ……」
「何か問題でもあるんですか?」
 言い難そうに言葉を濁す忠志に詩子は首をかしげる。
「大学が山形だから、そっちに下宿しなくちゃならない」
「行けばいいじゃないですか?」
 あっさりと言う詩子に、忠志は慌てて顔を詩子の方に向ける。
「やっと掴みかけた夢なんでしょう?」
「詩子は……」
 詩子はそれでいいのか、咽喉まで出かかったその言葉を忠志は飲み込んだ。それを肯定されたくなかったのだ。
「……なわけ、ありません」
 その言葉に答えるように詩子は悲しい微笑を浮かべた。
「え……?」
「平気なわけありません! 平気なわけ……」
 泣きながら声を張り上げる詩子の肩を忠志は抱き寄せた。
「でも、でも……忠志さんが選んだ道だから……私は……」
「詩子……」
「だから、私は待っています。忠志さんが帰ってくるのを……」
 そう言うと忠志の胸から顔を離す。
「……うちに、来ませんか……?」
 詩子はそう言うと立ち上がる。
「……ああ」
 忠志が立ち上がると、詩子は手探りで忠志の位置を探る。
「詩子?」
「……腕、組んでもいいですか?」
「別にかまわない」
 顔を真っ赤にして訊ねる詩子に忠志は頷くと、詩子の手を自分の腕に導く。詩子の手が自分の腕に絡むのを確認してから、ゆっくりと歩き出す忠志に、詩子は、恋人みたいですね、と微笑んだ。
 
「さ、あがってください」
 普段なら別れを告げる場所で、詩子は忠志の腕を引っ張る。
「あ、ああ……」
 少しだけ緊張しながら、玄関をくぐる忠志。そして靴を脱ぎかけた瞬間。
「あら、忠志君……」
 不意にかけられた声にピタリ、と動きを止める。
「あ、どうも、こんちわ」
 忠志がぎこちない挨拶をすると、詩子の母親はにっこりと微笑む。
「ちょうど良かったわ」
「え?」
「なに? お母さん?」
 間抜けた声を出す忠志と、不思議そうな顔をする詩子に、詩子の母親は笑みを崩す事無く、サンダルを履き始める。
「ちょっと買い物に行こうと思ってたの。娘の事よろしくね、忠志君」
「チョ、お母さん……」
「しっかりやるのよ、詩子」
 反論を許す間もなく、玄関を出る母親に、二人は小さく息を吐いた。
「もう、お母さんったら……」
 苦笑する詩子につられて、忠志も笑い出す。
「……忠志さん、こっちです」
 そう言って詩子は廊下に備え付けられた手擦りを辿って部屋に案内する。
「ここが、私の部屋です」
「へぇ……案外普通なんだな」
 正直な感想を漏らす忠志に、詩子は頬を膨らませる。
「どう言う意味ですか?」
「いや、正直な感想さ。なんかこう、もっと殺風景なのを想像してたから」
「ひどい。私だって女の子ですよ?」
「あ、悪い、そう言う意味じゃ……」
 そっぽを向く詩子に忠志は慌てて謝る。その様子に詩子は吹き出す様に笑い出した。
「でも、今の掛け合い、恋人同士みたいですよね?」
「俺はそのつもりだけどな」
「え?」
 いたずらみたいな声を出した詩子に忠志は真面目に答え、その返答に詩子が戸惑ったような声を出した。
「行ってくる。必ず迎えに来るから、待っていてほしい」
「はい、待っています」
 にっこりと笑う詩子に忠志は無言のまま近付くと、その頬に唇を当てる。
「あ……」
「寂しくなったら、電話でも手紙でもなんでもくれ。いつだって飛んで来る。これでも点字の練習だけは毎日してるんだ。詩子の手紙を読むのも、返事も万端だ」
「はい、わかりました」
 努めて笑顔をつくる詩子に忠志は頷くと、その両手を取る。
「医学部を卒業するまで六年。もちろん、国家試験も合格しなくちゃいけない。それから研修医を経て、何とか一人前の医者になるのに最低で一年だ」
「私は忠志さんを待っています」
 しっかりとした声で答える詩子に忠志は苦笑すると、そうだったな、と小声で答えた。
「じゃ、行ってくる」
「はい。行ってらっしゃい」
「なんか、同じ様な言葉を掛けあい続けているな」
 苦笑する忠志に詩子は小さく微笑んだ。
「はい。でも、何度だって言えます。忠志さんが私の……」
「ストップ。それは詩子のためだけじゃない。何も見えなかった俺は、詩子に出会って初めて、自分のなりたい物、目指したい物を見つけた。だから、俺は詩子が示してくれた道を迷いなく進める」
 忠志はそう言うともう一度、詩子にキスをした。少しだけ長い接吻の後、忠志は照れたように頭を掻いた。
「必ず医者になる。それの後でもよかったら……」
「言いませんでしたか? 待っています、と」
――結婚しよう。
 忠志が言いかけた言葉を詩子は咽喉の奥で反芻すると、精一杯の笑みを浮かべ、疑いの余地を全く見せずに力強く頷いていた。

                               〈了〉


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